蕨ミニは究極にまで凝縮された空間だった。 ストリップをあの小さな空間に押し込めるために切り取ったのは、余白だ。 余白を切り取ってしまったために、踊り子が動ける空間は小さく、また、客との距離が異常に近い。 花道・盆をぐるりと囲む席に座れば目の前、最少10数センチ先に踊り子の肢体がある。 体温を感じるほどだ。 振りまわした手足をのけぞって避けることは他でもあるが、ここの距離感はそれとも違う。 全身が見えないわけではないが、それを際立たせる余白はない。 狭いと言われる上野でも新宿でも、余白はある。 美しくポーズを決めても、部分に目が行ってしまうのは必然である。 部分とは局部という意味だけではない。うなじや肩はもちろん、 たまたま目の前にある脛や関節さえも観賞の対象になるのだ。 肌の質感はもちろん、皮膚を通して肉付きや筋肉、骨格まで見えてしまう。 顔を見れば、細かな表情がわかるだけでなく、考えていることも見透かすことができるほど近い。 目が合うなどという生やさしい状態ではなく、じっと見つめ合う関係になる。 (たまたまそういう踊り子さんが多かったのだろうか?) 踊り子にとっては、他の劇場ではジャガイモだったモノを 一人の人間として認識せざるをえない距離だろう。 おそらく、他では1対多数の関係が、ここでは1対1の連続になる。 客も、踊り子から見られていることを意識し気を抜くことはできない。 近いがゆえの緊張感は踊り子にも客にもある。 その気持ちが凝縮された空間をさらに濃密なものにしている。 余白は女体の美しさ(カッコよさでもかわいさでも妖しさでもいいのだけれど)を より完全なものに仕上げる。 一方でそれは、ショーケースの人形のような距離感を感じさせてしまい、 全裸になってもまだ着飾っているように見えてしまうことがある。 蕨ミニには、生々しい裸の女が実在している
- 03/06 01:54
- WRB